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2006年06月26日

林昌さんと南洋小唄

その昔、嘉手苅林昌さんは、南洋にいました。

テニアン時代、西ハゴイという所にあった、
南洋興発株式会社の菜園の宿舎に、居候していたそうです。
この菜園は、さとうきびではなくて、野菜の栽培をしていたところで、
お得意さまは海軍。
トマト、なす、おくら、山東菜、色々なものを育てたそうですよ。
居候されていた側の、Mおじいに話を聞きました。
宿舎は、4畳半が二間続いている長細い造りで、台所が各世帯にあったそうです。
南興で働く農家には、自分の土地を持つ小作と、雇われて給料制で働くサラリーマンの2種類があったそうです。
小作のほうは完全出来高制なので、技術がなかったり土地が良くなかったりすると悲惨。
借金だらけで苦労した人も、決して少なくなかったそうです。
いい場所をもらえるとラッキーで、
朝から晩までそりゃもう働きどおしで沖縄へせっせと送金したといいます。
サラリーマン宿舎と小作の宿舎はちょっと違う。
小作のほうは一戸建てで、サラリーマン宿舎は長屋だったようです。

私が話を聞いた、元南興ハルサーのおじいは、ふたり。
偶然、ふたりともサラリーマンハルサーのほうで、
小作より割がいいから、小作になろうとは思わなかったといいます。

さて、おじいの家族は、お父さん、お母さん、おじいを含むこどもが3人。
4畳半二間の宿舎で、そこへ林昌青年が居候していたのですから、
まー決して広いとは言えませんわな。
蚊がいないので、窓はわりと開けっ放しだったそうで、
おじいは出窓で寝ていたと言ってました。

仕事は、朝の8時から夕方5時頃まで。
毎週日曜日は休みで、自転車に乗ってソンソンへ映画を見に行くのがおじいの楽しみでした。
おじいは当時、未成年だったので月給は60円。
ボーナスは20円あったとか。これは当時の沖縄からすると破格。

ところが林昌さん、居候時代はブラブラ、だらだらしていて働かず、
「沖縄に残してきた女の、恋の病が自分にうつったから働けない」
などと。おじいのお母さんに言い訳をしていたとか。

その恋の病ってさ、自分を対象とした恋の病じゃない?
なんで自分にうつる!? きっと当時は誰もがつっこみを入れたはず。

ち「南洋の各島に、隠し子がいるんじゃないかって話もありますよ」
おじい「あらん。女は沖縄にいるのにから、どうやってこどもを作る」
ち「えー、じゃあテニアン時代は…」
おじい「あっち(ポナペ)に行ってからは知らんよ。テニアンではそんなことはなかったはず」

林昌青年は、今で言う、プー太郎だったんでしょうね。

ちなみに西ハゴイという場所は、テニアン島の北部にあり、
ソンソン(今のサン・ホセ村)の繁華街までは、自転車で1時間以上かかったそうです。
あんまししょっちゅう行く距離ではないわけ。
町らしい町もなく、テニアンの中でも田舎だったそうな。
しかも出稼ぎに来ている男の人が多いので、女性は少なく、
そんな場所で隠し子を作るのは、容易ではなかっただろうと思われます。

ラッソー神社で踊りの奉納があった時、林昌さんが地謡をしたこともあったそうですわ。
んまー、ゼイタクだわぁ、と私は思いますが、まあ当時は何しろプー太郎ですから。
その後、ポナペに移って、沖縄芝居の小屋で歌っていたのは、皆さんご存知の通り。

おじいのところからの帰り、車の中で林昌さんの南洋小唄を聴きました。
三線も歌声も、とても軽やかだけど、
きっと他の唄者が歌うよりも、ずっとずっと鮮明に、具体的に、
南洋をイメージして、歌っていたのだろうなと思いました。

戦後、お盆の時期になると、Mおじいの家の仏壇を訪れていたという林昌さん。
お世話になった、Mおじいのお父さん・お母さんに、
ご挨拶したかったんでしょうね。


林昌さんと南洋小唄

写真は、Mおじいが野菜を納品に行っていた海軍の司令部。
左側の入口を入ると、奥に厨房やトイレ、お風呂の跡があります。

おじい「ここの左に台所があってよ。そこへ野菜を届けたわけ」
ち「あります!あります!こっち側はトイレですよね!」

林昌さんと南洋小唄

遠く離れたテニアンを介して、こうしてコザでおじいと話す不思議。

おじいは、お土産に、おいしい宮古のしまーをくれました。
その気持ちが本当にうれしくて、今、ダイニングに大切に飾っています。

私が聴いた南洋小唄はこれに入ってます。



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Posted by いのうえちず。 at 10:11 │記憶の中のリトルオキナワ
この記事へのコメント
ありゃー、プー太郎だったんだ・・・。
てっきり、南洋興発に手蔓をつけて
南方に渡ったと思っていたのに・・・。
困ったもんだね。

野村進「日本領サイパン島の一万日」岩波書店,2005.8.4をパラパラ捲っているんだけど・・・。
山形の家族がサイパンに移民した話みたいだね。
やっぱし南洋興発の仕事をしてたようで・・・
①大和人
②沖縄県人
③中国・朝鮮人・・・と
給料が三段階になっていたと書いてありますが・・・
そんな話は出ませんでしたか?

    (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2006年06月26日 17:52
もちろん聞きましたよ。

うちなーんちゅの受け止め方も年代と階層によって温度差があるみたい。
例の抗議行動以降、南興も態度を変えたことが影響して、
1944年当時に15歳とか20歳だった人達は
「南興は完璧な学歴社会。
学歴の低い沖縄の初期移民は待遇が悪くて苦労したはず」
と言います。とはいえ、まだまだ裏をとったり、
私のほうでも文献漁りが必要みたい。

でも、南興に感謝しているうちなーんちゅの帰還者は多いと思いますよ。
今のところ、限られた人数でしか聞き取りをしていませんが、そういう感触です。

10月には東京で南興会(OBたちの集い)があるので、
私も行こうと思っています。また違った話が聞けるかもしれません。

それと、その本に出てきた「キャンプ内での人間関係」について、
テニアンのチューロキャンプで、ある人を袋叩きにした一人に話を聞きました。
角井さん、「南洋数え唄」ってご存知ですか?
キャンプ内に収容された後も、多くの人々が、
「いつか日本から助けの船が来るはず!」と本当に信じていたようです。
山に残った敗残兵がキャンプに出入りして、食べ物を持っていったりしても、
誰も何も言わず、気づかぬフリをしていたとか。

戦後、敗残兵が怖くてテニアンに残るのをやめたという証言も得ました。
テニアンでは、沖縄出身者に限定して、残って農業を続けてもいいという米軍のお達しがあったのです。
1500世帯の募集に対して、サイパン・テニアンを合計しても700世帯に満たず、
その計画はキャンセルされました。
人々があまり残りたがらなかった理由の一つは、山に潜む敗残兵の存在だったと。
Posted by ちず。 at 2006年06月26日 18:28
サイパン・テニアン、そして台湾でもそーだったんですが、米軍は沖縄人と大和人を別国扱いしていたみたいですね。

台湾では日本人は戦後すぐ引き揚げねばならなかったのに、沖縄人は滞在できた。

戦中台湾ではは、1)大和、2)沖縄人 3)台湾人という階級性もありましたよ。

サイパン・テニアンもそーだったんじゃない?
Posted by しっぽ♪ at 2006年06月26日 20:27
例の抗議行動って
1932(昭和7)のストライキのこと・・・?

「南洋数え唄」は工工四にはあるけど
CD、カセットには無いみたいだから
多分聴いてないと思います。
「一つ・・・、二つ・・・、三つ・・・」じゃーなくて
「ティーチ・・・、ターチ・・・、ミーチ・・・」って
やるのかな・・・
それとも「一つとせいぇー・・・」かな?

こうゆうのを唄うのは知名定男かな・・・。
「誰も遣らないのを唄います」って言って
唄い出す癖のある彼のことだから・・・。

それから、南方からの引揚ですが
相当米軍の支援があったようですね。
その頃の新聞記事を読むと彼らの
紳士的な行動に驚いている様子を伝えています。

復員軍人から優先して先に帰したのは
これも米軍の意図だったのでしょうか?
危ない連中は先に送り出して安心しようとしたのかな?
それとも兵隊の方が断然病人が多かったのかな?
浦賀に最初に入った氷川丸は入港した
昭和20年10月7日には病兵だけ上陸させ
その他の将兵は翌日に廻されました。

沖縄県民だけテニアンに残って農業を
続けても良いと言う米軍のお達しは
「焦土と化した沖縄に戻っても生活出来ないだろう」
という配慮だったのでしょうか?
それとも、沖縄へ帰した方が彼らに食料を
支給するなどの負担があるので、
それならテニアンで自活させといた方が
得策と考えたのかな?
何れにしてもどちらも米軍が占領地だったのだから
彼らはどのような選択も出来たでしょうね。

   (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2006年06月27日 06:42
うん、だって終戦当時の沖縄は米国領だから、
法的な根拠に基づいても扱いは違うでしょう。
また、戦中の投稿ビラでも、
戦後も意図的に分離政策も取られたし。

台湾での人口比がどれくらいかはわかんないけど、
南洋では人口の6割をうちなーんちゅが占めていたので立派なマジョリティ。
あからさまな差別制度はまずいというよりも、
差別制度を維持することは難しくなったんだと思う。
南洋の開拓史をひもとくと、心情に根付いた差別意識は別として
制度上の差別制度をなくさざるを得なかった転換点が、
1927年のストライキ。
その後もキビの収穫高の目方を南興がちょろまかしていたことがあって、
1933年にも沖縄から湧上県議会議員が来て、待遇改善を訴えた。

ここからは私の感触にすぎないけど、
1934年に松江春次氏(南興のボス)の銅像ができた時に
小学生だった人の松江氏および南興に対するリスペクトっぷりと、
上記の差別待遇云々およびそれに対する抗議行動は、
あまりにもギャップがあって、戸惑いすら感じる。
想像で書くけど、多分、2006年現在で80代の人たちが知っている南洋と、
そのひとつ上の世代が知っている南洋は、
別ものというか、ちょっと違うものなんじゃないかと。

南興以前の南洋と、南興以降の南洋は全然別モノだし、
また、南興が黒字に転換してからの南洋の豊かさは、
さらに上だったはず。その中身は、戦争バブルもあっただろうし。

『日本領サイパン~』は、とてもいい本ではある。
いっぱい深ーい取材がしてあって、ずっしり腹もちがいい。
でも、随所にうちなーんちゅを見下すかのような表現があり、
私としては、個人の心情的になんか痛い。
読んでて、ちくんとくるし、ムカっとすることもある。
それは著者の見解ではなくて、当時のことをふりかえった
内地出身者の心情であり、発言であるので、
「当時はそうだったんだろうねぇ」と自分の中ではまとめますけど。

視点をどこへもってくるか。
モノを書く時の距離感についても、考えるキッカケをくれる、
貴重な本でもあります。

あと、南洋における階級性ね。
そりゃもう思いっきり
1)内地 2)沖縄 3)朝鮮 4)現地
でありましたよ。
現地の中でも、チャモロとカナカ(今のカロリニアン)でまた対立構造があるし。
ちなみに現地の人を殺しても、何円の罰金を払えば釈放されるとか、
これまた後日述べますけど、日本の植民地政策のえげつなさを
如実に物語るようなエピソードも拾ってきました。
Posted by ちず。 at 2006年06月27日 09:01
あ。早朝にしっぽ♪さんへのレスを書きかけて、
こどもたちの支度タイムに突入→放置→再度書き始め、
レスしたら間に角井さんのコメントが入ってた。

えーと、ちぐはぐになっちゃったな。

ここからは角井さんへのレスね。

南洋数え唄は、「ひとつーと サーノーエー」で始まり、
歌詞は全編ヤマトグチで書かれています。
古謝美佐子さんのライブでも聴けるし、
宮里奈美子さんの「ゐなぐ」にも収録されてますよ。

南洋小唄がウチナーグチで書かれた民謡なのに対し、
数え唄のほうは、戦後にキャンプで書かれた歌だということもあってか、
内容はヤマト・ウチナー関係なく日本人捕虜として
お互い助け合いましょうって内容です。
その中の一節に、「いつか助けの船が来る
お待ちしましょう 皆様よ」というフレーズがあります。

南洋からの引揚げですが、キャンプ内では
日本の敗戦を信じない「勝ち組」
(バックには山中に残ってゲリラ戦をやろうとする敗残兵)と、
戦時教育に異を唱えて平和国家を再建しようというリベラル派の「負け組」があり、
その対立をどうコントロールするかは大きな課題でした。
また、キャンプ内での民心を安定させることは最重要課題でしょ。
そんなこんなで、温情ではなく、実状で軍人を先に返したんです。

うちなーんちゅだけ残っていいよというのは、
アメリカ人のある実業家が、テニアンでプランテーションをやろうとしたからです。
そのためには、テニアンの農業をよく知り、
また当時アメリカ領の市民であるうちなーんちゅが一番便利でしょ。
1500世帯も残れば事業として成立するという目論みでしたが、
結局居残り希望者がそれに満たず、
「えーい、だったらみんな帰れ」となったわけ。
だから最後の引揚げ船に乗った人たちは、
当初、居残る気まんまんだったうちなーんちゅだらけ。
しかもテニアンにモノを置いていてもしょうがないから、
家財道具から食糧まで、好きなだけ持って帰っていいよということでした。
実際には、食糧は久場崎で没収されたけど。
同じ引き揚げといっても、横須賀経由で戻った人と、
久場崎へ直接帰った人、また、最後の引き揚げ船かどうかで、
ずいぶん明暗が分かれたみたいね。
Posted by ちず。 at 2006年06月27日 09:16
いっこ書き忘れた。
捕虜の返還って、なにやら協定に基づいて、
速やかにやらなきゃいけないんでしょ?
Posted by ちず。 at 2006年06月27日 10:07
ガハハ・・・、今「ゐなぐ」回してます。
何度か聴いていた筈ですが
スッカリ忘れてました。
お恥ずかしい・・・。

ははーん、ヤッパリ軍人さんは厄介者だったんだ。
それにししても元気そうな兵隊さんだね。
浦賀に帰ってきた将兵は二年余もろくなものを食べてなかったので憔悴しきっていたが
テニアンの方々は収容所で米軍から
支給された食料で生気を取り戻したのかな?

「インヌミから」の証言にも・・・
「パイナップル工場を建てて、パイナップル栽培をさせてやる」つー話が出てきましたが
それってアメリカ人実業家の企てだったんですね。

何時の時代にも上手くタイミングを狙って
商売にしようって輩はいるもんですね。
アイデアは良かったけれど
現地妻や子供まで残してまで
引揚げてしまうとこまでは
読めなかったんだね。

正直言ってそこまでして殆ど全員が
帰国したのが私には分からない。
多分、多くの人々が沖縄では食べれないから
南方に移住したのに何故もっと酷い状態に成っている沖縄に帰っていったんだろう?
故国に帰りたいと云う心情は良く分かりますが・・・。

それから、インヌミ収容所が米軍によって正式に開所したのは1946(昭和21)年8月のことらしいのだが、それ以前の久場崎の
受容れ体制はどうなっていたのだろうか?

台湾からは個人的に船をチャーターして
八重山などへ引揚げてきたそうですね。
海に詳しいウチナンチューのことだから
どんな処でも上陸出来たかも・・・。

しかし、久場崎と入港地を指定したのは
米軍だろうから、そこが彼らの作戦上
何らかの理由で支障の無い港だったはず。
大分経って落着いてからは那覇港への入港も
許されたらしいから、そうゆうことだったんだろうね。

     (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2006年06月27日 11:10
結局のところ、残留希望者はいたけれど、
米軍によって退去命令が出されたんですよ。
だから全員が引き上げたんです。
それに、米軍がいなくなった後、日本の敗残兵が出てきたら、
それはそれで厄介でコワイでしょう。

戦後、テニアンに再移住したいと申請しているグループもいました。
沖縄公文書館に、当時の米政府の書類が残っています。
再移住は却下されて結局かなわぬ夢となるのですが、
申請をした人に話を聞くと、
「もう一度開拓して、新しいテニアンを作るつもりだった」
というのです。

また、墓参団への渡航許可も、長いことおりませんでした。
Posted by ちず。 at 2006年06月27日 11:48