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文筆家もしくは、がちまやバカライター。座右の銘「愛と誠と肝心(ちむぐくる)」を小脇に抱え、人生街道をフルスロットルで驀進中。
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2009年05月18日

取材メモから

今日は、戦時中に摩文仁村役場で働いていた人に話を聞きました。

ド南部、ド激戦地。
だけど、住民による軍への協力は、ギリギリまで続いていた。
これがちょっとショックだった。





軍への食料供出が、村役場の一番大きい役割。
部隊は、主食のコメは持ってくるけれど、
副食は地元からの供出頼み。
米須で集荷したものを、各地域の陣地へ配分するんだって。

また、上陸後、戦線が南部へと移るギリギリの、6月初旬までは、
17時頃~、各壕から何名かずつ民間人を出して、
陣地構築をしたんだって。

石積みの戦車断崖を作ってよ、今思えばバカらしい。
戦車が進めないように、というけれど、
あんなもので戦車は止められないさぁ。

役場の職員が入っている壕には、どこそこで誰々が死んだよーと連絡が入るさ。
死んだ人を何人埋めたか知れんよ。
最初のほうは、簡単に穴を掘って、埋めていた。

6月16日、17日頃、米軍が近づいてきてよ、
あの頃は…避難民が右往左往していたよ。
どれくらいかというと…マラソン見たことある?NAHAマラソン。
ああいうふうに、避難民が右往左往していたよ。
摩文仁めざす人、喜屋武岬めざす人、というふうに。
上空をトンボが飛んでよ、兵隊がいると、上からパラパラーして(撃って)。
兵隊はまた、負傷して2~3名が肩を組んで、
行くところもない、道ばたで死んだりして。
巻き添えで、民間人も死ぬさ。
無残なものだった。

どうせ負けるんだから、早くに降参していれば、
あんなに大勢の人が死なずにすんだのに。



5月末、62師団、32軍司令部、24師団が次々と南部へ撤退。
この頃は、まだまだ南部の住民は、日本軍に協力していた。
6月14日には、島田知事ら県庁壕の面々が真壁の壕から
摩文仁の32軍司令部壕に向かってる。
6月17日、米軍は真栄平あたりを突破。

6月初旬までは軍に協力していた、というのが、
いかにギリギリまで民間人も必死に戦ったかということをあらわす、
妙に重いリアリティを感じさせる言葉だと思った。

本で読んで、知っているつもりになってはいけない。
いつも思うことだけど、やっぱりそうなんだよな。



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Posted by いのうえちず。 at 22:56 │沖縄