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2005年10月03日

陸軍中野学校

小野田さんの母校です。陸軍中野学校。




この本を読みました。

沖縄戦について学ぶと、どこかで必ずこの「中野学校」という言葉に出くわすはず。
私が初めて沖縄戦で「中野学校」「特務」というキーワードを見たのは、
波照間の「忘勿石」に関するものを読んでいて、でした。

以来、ずっとひっかかっていた。
ビルマやら南方の列強植民地の独立運動を煽ったのも中野学校出の特務(スパイ)。
そのまま現地に残って、ゲリラ戦を続けた人もいる。
ある時は独立戦線で体を張り、独立派に武器やゲリラ戦のノウハウを提供して助けたのは、
それが日本の国益になるからということだけど、
列強支配からの、アジア諸国の開放という理想に燃えていた人もいたという。
侵略戦争の影響でアジアにおける対日感情は悪いみたいによく言うけど、
実際、対日感情が悪いのは、中国と朝鮮半島以外の、どこ???

で、そういう中野学校出の活躍(と言っていいのかな)と、
沖縄戦における、ロクでもないふるまいは、あまりにギャップがある。

なんでだろ???
7年間で2131名の卒業生を出したという中野学校。
第1期、2期の頃は、文字通りの「八紘一宇」という理想を体現すべく、
少数精鋭、陸軍にしては珍しい自由な雰囲気(天皇は人間だ、とか言ってもOKだったとか。驚異的)で、
1人で1個師団並みの働きができる工作員を養成していたそうな。
戦況が悪化するにつれて、大量生産になっていたのだと、この本には書いてあった。

沖縄戦でメジャーな中野学校出のふるまいといえば…

波照間の山下虎男(偽名)本名は酒井清だか喜代輔だか。
1600名あまりの島民全部を西表に強制的に疎開させ、牛や豚などの家畜を接収(軍の食糧にした)。
疎開先はハマダラカがバリバリに生息する西表のジャングルだったので、住民のほとんどがマラリアに感染。
山下は疎開を拒む者には抜刀して威嚇したとか。マラリア有病地帯へ人々を追いやっておきながら、
戦争に負けると、「私は命令でやっただけ」と、いけしゃーしゃーと内地へ帰った厚かましい男。
疎開先の南風見から波照間へ帰れることになっても、まだまだ死ぬ人は続出。
結局、住民の実に3分の1がマラリアで死んだ。栄養状態も悪く、体力のないこどもたちもいっぱい死んだ。

西表の南風見田の浜には「忘勿石」がある。
山下は最初、学校の教員として波照間に赴任してきた。
その学校の校長だった識名先生が、浜の大きな石(岩サイズだけど)に
「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻んだのだ。
初めての沖縄旅行で、南風見田の浜に立った時は「波照間の人たちは、どんな気持ちでこの景色を眺めていたのかな」と、
切なさで胸がいっぱいになった。それから2年後、初めての波照間で、西表を臨む地の慰霊碑を見た時も、
「この場所に慰霊碑を建てる切なさ」で胸がいっぱいになった。どうも感傷的でいけませんな。

で、波照間でビックリする話を聞いた。山下こと酒井は、戦後しばらくたってから、波照間を訪問したというのですよ。
ひえー、どのツラ下げて!? 私もたいがいツラの皮厚いけど、山下こと酒井がどういうつもりで波照間に来たのか全く理解できません。
ちなみに、下宿先だったおうちの人には、とても親切だったそうな。…だからってねぇ。

もうひとつ、強烈に印象に残っているのが、義烈空挺隊
5月24日、熊本を発って沖縄をめざし、アメリカがすでに使っていた北飛行場(読谷)と
中飛行場(嘉手納)へ、米軍の攻撃をかいくぐってゴーインに着陸し、米軍機と飛行場を破壊して、
使えなくしてしまえ、という作戦を展開。
150人あまりの兵士が12機に分乗したが、この中には10人の中野学校出の特務がいた。
作戦が成功したら読谷山麓に集合して、ゲリラ戦を展開するつもりだったとか。
結局、読谷にわずか1機が着陸して米軍機20機を破壊。
25日の午前中まで飛行場は使い物にならなかったとか。

で、上記の本に話を大きく戻します。
結局、この本には「中野学校を出た優秀な人材が、いかに列強を出し抜いたか」は書いてあるけど、
「中野学校出の人たちがやったこと」の明暗両面は書いていない。
激戦で知られたガダルカナル島からの撤退劇など、うまくいった特務の仕事はたっぷり書いてある。
まるでスパイ小説のような面白さ。
でも、それレアケースじゃないの?南方では戦死者も多いけど、餓死や病死も多かったでしょ?
撤退できなかった玉砕のほうが多いんじゃないの?

学校では近代~現代史を教えない。私が不勉強なのもある。
中野学校出の生き残りたちが、国会議員になったり、
自衛隊やら内閣府やらの調査機関で後進を教えたり、という事実には、ちょっとびっくりした。
特務イコール悪い人、ってわけでもないだろうけど、何だかねぇ。
私らの世代は、もうちょっとこういうことにも目を向けるべきじゃないかしら。
旅先で楽しむとか、何か趣味を持つとか、個人のお楽しみに長けた人は多いけどなぁ。


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Posted by いのうえちず。 at 21:33 │日常
この記事へのコメント
歴史って、かなり美化されてるものだと思う。
だから、ビルマなどの日本人は頑張っていた・・・と
書かれてるのでは?
実際、アジアの歴史を調べてみたらどうなんだろう?
それみたことか・・・と思うかもしれない。
中国・韓国・朝鮮では確かに歴史的にみても日本が悪い・・・っと
なっているけど、戦争する自体どっちもどっちなんでは??と
つくづく思う私。
今頃になってギャーギャー騒ぐのもおかしいとおもう。

沖縄戦で中野学校のイメージが悪いのはとうぜんである。
どれだけ美化させようとも、生き証人の島人が沢山いる。
だから喋りたくないけど、リアルな証言がでてくる。
それで美化できるものならしてみるがいい!!!と思う。。
ま・・・私自身がギャーギャーするのもどうかと思うんだけど・・・
最近、こういった話をする機会がおおいな・・・
Posted by げん at 2005年10月04日 07:42
げんちゃん、中国は歴史認識に対する時間の感覚が、日本人とはえらい違うんだよ。
何しろ4千年だから、ほら。60年前なんて、つい先日のことだし、
外交に使えるカードなら、何でも切ってみせるのがかの国のセオリーですからの。
日本が敗戦後、そのまま力をなくして、極東の小さな島国に戻っていたら、
全然態度も違ってたんじゃない?
朝鮮半島の皆さんは、親方である中国よりもさらに文化的に下だと思ってる日本に侵略されたこと自体がプライドを傷つけるし、
自分ちの内戦(しかも米ソの代理戦争)で焼け太りして金持ちになった日本に対するフクザツな思いがあるでしょう。

沖縄戦では、中野学校云々以前に、日本軍全体がどーしよーもないから。
その中にあってフツーの人間的な感覚を持っていた太田少将(当時)が偉かったみたいに言う人がいるのも、
32軍があまりにもひどいので、対比してみると余計に際立って見える効果があるんじゃないかと思う。

北方領土にソ連軍が侵攻して来た時、「北千島に取り残された1200人の民間人の避難」を最優先させた91師団のエピソードがあってだねい。
千島にソ連軍が来たのは8月15日を過ぎてのことだったけど、そのエリアに残っていた91師団で
「婦女子を含む1200人の非戦闘員をどうするのか。このまま降伏したら、
ソ連軍に暴行されるのは目に見えている」と話し合ったんだってよ。
司令官だった堤中将が「兵を千日養うのは、一刻の非常に役せんがためで、非戦闘員を保護するのが軍の責任である」と言い、
日本が負けたとわかっていても、1200人の民間人を北海道本島へ避難させるまでは、
戦い続けたんだって。で、無事に送り届けた8月19日に、停戦に応じたと。

沖縄戦が終わった後の久米島で、住民の虐殺をした日本軍の残党との、この違いは何なの!?
あたしゃ情けないよ。海軍の電波深信隊だってよ。(隊長は鹿山正兵曹長。サイテーの男)

戦争を美化してるつもりの慰霊碑が、沖縄にはいっぱいあるじゃん。
散華だの、忠魂だの。烈って字もいっぱよ。
どういう無神経な人が、沖縄に、ああいう慰霊碑を作れるのかと思うわ。

戦時中、沖縄にいた事があるらしいじいちゃんが、死ぬまで沖縄でのことを口にしなかったっていう友達がいるわ。
彼女が沖縄に住むことを決めた時、じいちゃんは猛反対。
何か、心に思うことがあったんだろうね。
でも結局、じいちゃんは「沖縄の人のために、尽くしなさい」と言ったそうな。
今はもう鬼籍の人となったそのじいちゃんに、話を聞いてみたいと思った。
Posted by いのうえちず。 at 2005年10月04日 11:19
ん~・・・考えさせられるなぁ~。
ある人は日本の為に・・・ある人は沖縄の為に・・・
ある人は自国の為に・・・ある人は人の為に・・・・
戦争でなくしたものは計り知れない・・・ってか、私なんかが
声にしちゃいけないのかも知れないけど・・・
培ったものってあるのかね?ないのかね?
今の世の中みてると培ったものなんてないんだろうね・・・
同じことの繰り返し・・・

そのなくなった爺ちゃんに俺も会ってみたいよ。
こないだなくなった爺ちゃんは海人で、昔は料理をしていたんだ。
戦争のとき、海の幸を料理できるからって無理やり日本軍の
船に乗せられたみたい。小さい頃、戦艦の話をすると必ず
だまりこんだんんだよ、爺ちゃんも。。。
どんな料理を作ったの?とか聞いてもなにも答えてくれなかった。
ただ、不思議に思ったのは料理人だった爺ちゃんが料理を
一切やらなくなった・・・って事だけ。そんなにいやだったんだな・・・
海人は毎日してたけど、料理は・・・
あと、酒も毎日浴びるほど飲んでいたよ。
嫌だったんだろうね。ってか、弱かったんだろうね。爺ちゃん。

良く、戦争のときの話を海で飲んで言霊として言ってたもん。
同僚たちと飲んでいたんだろうね。
サバニに寝転がって、毎日喋っていたのを覚えてる。

わからんよ・・・何がなんだか・・・
そんなんを目の当たりしてきたから私は
楽天的に生きることを選んだような気がする・・・
Posted by げん at 2005年10月04日 16:32
その爺ちゃんにも、話を聞けるものなら聞いてみたかったな。
口をつぐむほどのつらい思いって、
現代人の我々には、想像もつかない重さだと思う。
だから勇気を持って語ってくれる人の証言は丁寧に拾って、記録しておかなくちゃいけないんだと思うよ。
記憶は、いつか消えてなくなるからね。
語り継ぐとか、掘り起こすとか、何らかのアクションを起こすことは大事。
とりあえず、私はまだまだいろんなことが知りたいなあ。
Posted by いのうえちず。 at 2005年10月04日 20:36