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文筆家もしくは、がちまやバカライター。座右の銘「愛と誠と肝心(ちむぐくる)」を小脇に抱え、人生街道をフルスロットルで驀進中。
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2007年04月24日

戦争体験を語る

ウチナーハーフの編集Kちゃん(沖縄生まれで、東京に住んでるけど、よく沖縄に帰省していた)が、
自分のおばあさんに戦争の話を聞いたのは、一度だけ。

それまで、那覇近郊のおばあちゃんちに行っても、
特に戦争の話をしたことはなかったんだそうです。
おばあさんは慶良間の某島出身。
おばあさんの実家を訪ねて、Kちゃん&おばあさんの2人で某島に行った時のこと。
初めて、戦争のことを話してくれたのだとか。
「島に行ったから、普段と違うシチュエーションで、そういう話が出たのかもしれないね。
どっちにしても、あんた、それめっちゃ貴重な体験よ。
話してもらえて、よかったね~~」
と、言いつつ、私は自分のじいちゃんのことを思い出した。

じいちゃんは、戦時中は広島県呉市の海軍工廠に勤めていて、
人事課で人の給料の計算ばっかりしていたそうです。

大和を建造していた時は、海軍工廠内に勤めている人でも、
絶対に大和の姿が見えないよう、徹底して機密が管理されていたとか。
呉の空襲の時は、ああだった、こうだった。
自分の妹の夫が乗る軍艦が、南方へ出ると聞き、
検閲があるので「おまえのダンナの船が出港するぞ」とは言えず、
ただ、ハガキに「呉も桜の見ごろだ。たまには見に来い」と書いて出したこと。
妹は愛媛県内から、幼子の手を引いて来たけど、間に合わず、
夫の乗った船を見送った。それが最後だった。
呉が空襲でダメージを受けてからは、狭い家に親戚や知人が転がり込んだこと。
大変だったけど、そうやって助け合うのが当たり前だったこと。
防空壕で蒸し焼きみたいになった同僚の遺体を運び出したこと。
父をよそからもらってきた時、配給のミルクだけでは量が足りず、
よそんちでもらい乳をしたり、お米をすりつぶして重湯を作って飲ませたり、
母乳で育てていないためか病気がちな子で、そりゃもう苦労したことなどなど。

  ※母乳でもミルクでも問題ないんですけど、当時の栄養状態を考えた場合、
    ミルク+重湯では不十分だったんでしょうね。

私は小さい頃、じいちゃんに昔の話を聞くのが好きで、
「海軍工廠へおった時分は…」「県庁へおった時分は…」で始まる話を、
何度も何度も聞いたものだった。

編集Kちゃんちのおばあさんの戦争体験と、
うちのじいちゃんの戦争体験は、明らかに質が異なるのだろう。
仮に、うちのじいちゃんが戦時中、兵隊にとられるような若さだとして、
ドロドロの地上戦を経験していたら、
何度も孫娘に話せるような戦争体験じゃなかったかもしれない。

Kちゃんのおばあさんは、まだ健在なんだって。
いつかまた、戦争の話を聞かせてもらえるといいね。
私たちにとっては、今しか聞けないこと。
おばあさんにとっては、今だから話せることが、きっとあるはず。


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Posted by いのうえちず。 at 14:44 │沖縄
この記事へのコメント
今月から・・・
横浜市内の某県立総合高校の
外部聴講生になった。
科目は「昭和史」。早速、宿題が出た。
支那事変で戦死した兵士に関連した
書簡の解読。連休中はこれに集中。
達筆で難解。でも、近世文書よりは
マシかな?その内、本になるかも・・・。

    (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2007年04月24日 16:07
つのいさん、ごぶさたです~。
おお、学生になったんですか!すげーや。
そんでもって、高校でそんな科目があるんですね~。
びっくり。
Posted by ちず。 at 2007年04月24日 18:45
私の父は、台湾に住んでたの。
5歳くらいから、終戦までずーっと。
特権階級だったし、しかも足が悪かったから、戦争は経験していません。
んでも、聞くとそれなりに色々あって、面白かった。
Posted by ルーファス at 2007年04月24日 22:28
足が不自由なのは、昔からだったのね。
台湾はよかったって言う人は多いみたいだけど、
引き揚げ後はご苦労もあったでしょうねー。
Posted by ちず。 at 2007年04月24日 22:32
ワタシんとこは母親の空襲の体験とか父親の疎開の体験とかだけかなぁ。

それでも聴いていて身震いするようなことってありました。
Posted by 南島中毒 at 2007年04月24日 23:39
足が悪くなったのは、実はとんでもない理由があったの。良かったら、ブログの4月19日の「父の話」を読んでみてね(^。^)
Posted by ルーファス at 2007年04月25日 00:01
>南中さん
そっか、南中さんちは親が戦争を経験している年代なんだね。
お父さん、学童疎開だったのかしら。

>ルーファスさん
わかった、見てみる!
Posted by ちず。 at 2007年04月25日 00:17
そう、高校生になったのでぇーす。
「昭和史」講座は私を入れて生徒10人。
月曜日の一時間目、休憩なしの
90分授業です。

戦争の歴史を学びます。
先生はこの分野の研究者です。
この学校で教鞭をとる傍ら
国立民俗歴史博物館の研究員でも
あられます。私ってどうして次から次へと
素晴らしい人に巡り会うのでしょうか。
ちず。さんも、その一人ですよ。

この先生、前任校でも生徒も動員した
戦死者の研究を行い一冊の本に
纏められておられます。

今回の書簡解読も「本を作る」を
目標にしています。
ねぇ、素晴らしいでしょう。

     (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2007年04月25日 07:20
うわー、そんなことが高校で行われているとは…!
私もそういう授業を受けてみたいなあ。
絶対に面白いってニオイがぷんぷんするもん。
都内でもそういうのあるかなあ。
ないかもしれないなあ。あの都知事だからなあ。
Posted by ちず。 at 2007年04月25日 08:58
>絶対に面白いってニオイが
>ぷんぷんするもん。

確かに匂いはするんだけど・・・。
先生中心の講義は頭二回で終い。

後は全員発表のとか
代表2名の発表による討議方式。

その都度、各自レジュメを用意して
皆から浴びせられる質問の
答えを用意して置かねばならない。

何しろ生徒は十人ポッキリ。
一人頭イッタイ幾つのレジュメを
用意すればよいのだろうか・・・。
先のことを考えると気が重い。

9人の生徒さんは皆三年生。
二年間にバッチシこのような学習方式を習得。
受験を前にして余裕綽々の9人だ。

彼らは大学に行っても困らず
大いにリーダーシップを発揮しているとか。
近いうちに彼らの中から逸材輩出間違いなしの予感。

因みに、この学校には学区が無く
神奈川県中から通っている。

図書館には彼らや先輩の作品のファイルが
何百冊も並べられている。
論文や文芸作品、中には長編の戯曲も・・・。

私の頭では到底入学出来なかった
高校に違いない。外部聴講生だから
面接のみで入れて貰えた。
・・・って感じです。

       (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2007年04月25日 17:39
なるほどー。
そんな公立高校だったら、
娘も通わせたいな~。
公立も捨てたもんじゃないね。
Posted by ちず。 at 2007年04月25日 21:59
そう、単位制だから
自分でシラバスを読んで
カリキュラムを組立てる。
HRは特にあるような
無いような・・・。

だから屹度自主性のある人間に
育つと思われます。
「自分で物事を考える習慣」
少なくとも、これだけは
完全に身につきそう。

外部聴講生にも開放されている
外国語だって、こんなにあります。

①英語
②オーラル・コミュニケーション
③リーディング
④ライティング
⑤ドイツ語

⑥フランス語
⑦ハングル
⑧中国語
⑨スペイン語
⑩ラピッド・リーディング

⑪クリエイティブ・ライティング

どう、お子さんを
越境入学させちゃったら・・・。
でも、単位制総合高校って
今流行だから都立にもあるでしょう。
生徒減に伴う高校の統廃合、
そこに登場するのが、
お決まりの「単位制総合高校」です。

私の通う総合高校は県内始めての試み。
今では県内に何校もあるようですが、
ここまで徹底した学校はここだけかも・・・。

     (つのい いちろう)
Posted by 角井 一郎 at 2007年04月26日 04:16
なるほど!
長女が高校へ進学する頃は、そういう公立の実力もずいぶんハッキリしてきてる鴨。
Posted by ちず@モバイル at 2007年04月26日 09:57