2006年06月29日
テニアン 慰霊の旅3
ほぼ毎年のようにテニアンを訪れるYさん一家。
ところが、Yさんには、どうしても行けない場所があります。
ところが、Yさんには、どうしても行けない場所があります。
カロリナスの農園で、南興のサラリーマンハルサーだったYさん。
あらかじめ探しておいたガマに潜み、日中は艦砲や爆撃を避け、
夜になると畑へ農作物を取りに行ったり、ガマの外で煮炊きをしたりという
避難生活を送っていたといいます。
日中、外へ出られないことを除けば、食べ物も豊富で、
避難生活に特に不自由はなかったとか。
ところが戦局がいよいよ怪しくなった時、日本兵がガマへやってきて、
避難生活を送っていた数十名を追い出したのだそうです。
ここでも、友軍が一番怖かったわけですよ。 …-_-#
Yさんは、逃げるあてもなく、あちらこちらを1週間さまよいました。
そして、お父さんと弟さんと、はぐれてしまいました。
その後、一緒にガマから出た人9人と、投身自殺を図ることにしたのです。
9人のうち、何人かは同じ字(あざ)の出身でした。
「みんなで逝こうね」「ついて来いよ」
口々に言い、Yさんを除く9名は、次々と青い海に身を投げました。
ところが、最後尾にいたYさんだけが、
切り立った崖のあまりの高さに足がすくみ、崖の手前でしゃがみこんでしまいました。
「怖くて、飛び込めなかった」
それから2時間、その場にへたり込んでいたそうです。
「2時間、座っていたわけさ。その間、誰も上がって来ないからよ、みんな死んだはず」
それから、米軍の呼びかけに応じて投降し、キャンプに収容されました。
生存者が集まり、時には再会を喜ぶキャンプに、とうとう9人は現れませんでした。
Yさんは、毎年、身を投げた9人のために、ウートートーします。
だけど、62年経った今でも、その崖っぷちへと、
2時間へたり込んでいた場所へと足を運び、
下を覗き込むことはできないのだそうです。
話したくないことだったかもしれない。
でもYさんは、しっかり聞かせてくださいました。
*************
今年、テニアンのその現場へはマークが同行しました。
その時は、Yさんがどうして車から降りないのか、
そして、末の弟さんだけが車から降りてウートートーするのか、
よくわからなかったと言いました。
今回、私たちは沖縄でYさんのお宅にお邪魔してお話を聞き、
Yさんの心の傷を知ることで、やっと「そうであったか」と納得できたのです。
それで、彼は車から降りられなかったのか…!
マークは、ショックを受けていました。
Yさん宅を離れ、読谷へと向かう途中、
私たちはインタビューの復習をしていました。
カロリナス台地の、Yさんが隠れていたガマ。
それを探して車を走らせている間、「んー、ここだったかな」
「これじゃないな…」といった雰囲気で、Yさんはあまりハッキリと
その場所を記憶していなかったようだったんですって。
それが、あるガマへ近づいたとたん、Yさんの表情がガラリと変わったのだとか。
急に顔が輝いて「ココダ!」って言ったんだよ。
まるでフラッシュバックを見ている人のようだった。
そして、車を降りて、小走りにCaveへ行き、
満面の微笑みで、中に入ろうとしたんだ。
周りの人は彼を止めた。
だってそのCaveに入るには、彼は年を取りすぎている。
でも…チズ、なんであの時、彼は微笑んだんだろう。
それまでの顔とは、まるで違った、大きな微笑みで、
それは、とても…ハッピーに見えたんだ。
彼には、Caveの中にいる友人たちが、見えているかのようだった。
Caveでの避難生活は、辛い記憶なんじゃないのか?
なぜ彼は微笑んだ?
ガマを見つけて、ハッピーに見える微笑を浮かべるというのは、
アメリカ人にはわかりにくいかもしれないなあ。
マーク、Yさんはきっと懐かしかったんだと思うよ。
そのガマでは誰も死にませんでした。
食べ物は豊富にあったし、夜間は自由に行動できた。
そのガマは、とてもラッキーなガマだったと思う。日本兵が来るまでは。
日本兵が来て、人々をガマから追い出した。
ハードだったのは、それからだったと思う。
お父さんと弟さんを見失って、9人の友人がジャンプした。
そしてYさんは、大きなトラウマを持った。
62年後も、崖から海を見下ろせないんだよ。
でもガマそのものは、安全な場所の記憶かもしれない。
…。
それからしばらく、私達は黙って読谷を目指しました。
あらかじめ探しておいたガマに潜み、日中は艦砲や爆撃を避け、
夜になると畑へ農作物を取りに行ったり、ガマの外で煮炊きをしたりという
避難生活を送っていたといいます。
日中、外へ出られないことを除けば、食べ物も豊富で、
避難生活に特に不自由はなかったとか。
ところが戦局がいよいよ怪しくなった時、日本兵がガマへやってきて、
避難生活を送っていた数十名を追い出したのだそうです。
ここでも、友軍が一番怖かったわけですよ。 …-_-#
Yさんは、逃げるあてもなく、あちらこちらを1週間さまよいました。
そして、お父さんと弟さんと、はぐれてしまいました。
その後、一緒にガマから出た人9人と、投身自殺を図ることにしたのです。
9人のうち、何人かは同じ字(あざ)の出身でした。
「みんなで逝こうね」「ついて来いよ」
口々に言い、Yさんを除く9名は、次々と青い海に身を投げました。
ところが、最後尾にいたYさんだけが、
切り立った崖のあまりの高さに足がすくみ、崖の手前でしゃがみこんでしまいました。
「怖くて、飛び込めなかった」
それから2時間、その場にへたり込んでいたそうです。
「2時間、座っていたわけさ。その間、誰も上がって来ないからよ、みんな死んだはず」
それから、米軍の呼びかけに応じて投降し、キャンプに収容されました。
生存者が集まり、時には再会を喜ぶキャンプに、とうとう9人は現れませんでした。
Yさんは、毎年、身を投げた9人のために、ウートートーします。
だけど、62年経った今でも、その崖っぷちへと、
2時間へたり込んでいた場所へと足を運び、
下を覗き込むことはできないのだそうです。
話したくないことだったかもしれない。
でもYさんは、しっかり聞かせてくださいました。
*************
今年、テニアンのその現場へはマークが同行しました。
その時は、Yさんがどうして車から降りないのか、
そして、末の弟さんだけが車から降りてウートートーするのか、
よくわからなかったと言いました。
今回、私たちは沖縄でYさんのお宅にお邪魔してお話を聞き、
Yさんの心の傷を知ることで、やっと「そうであったか」と納得できたのです。
それで、彼は車から降りられなかったのか…!
マークは、ショックを受けていました。
Yさん宅を離れ、読谷へと向かう途中、
私たちはインタビューの復習をしていました。
カロリナス台地の、Yさんが隠れていたガマ。
それを探して車を走らせている間、「んー、ここだったかな」
「これじゃないな…」といった雰囲気で、Yさんはあまりハッキリと
その場所を記憶していなかったようだったんですって。
それが、あるガマへ近づいたとたん、Yさんの表情がガラリと変わったのだとか。
急に顔が輝いて「ココダ!」って言ったんだよ。
まるでフラッシュバックを見ている人のようだった。
そして、車を降りて、小走りにCaveへ行き、
満面の微笑みで、中に入ろうとしたんだ。
周りの人は彼を止めた。
だってそのCaveに入るには、彼は年を取りすぎている。
でも…チズ、なんであの時、彼は微笑んだんだろう。
それまでの顔とは、まるで違った、大きな微笑みで、
それは、とても…ハッピーに見えたんだ。
彼には、Caveの中にいる友人たちが、見えているかのようだった。
Caveでの避難生活は、辛い記憶なんじゃないのか?
なぜ彼は微笑んだ?
ガマを見つけて、ハッピーに見える微笑を浮かべるというのは、
アメリカ人にはわかりにくいかもしれないなあ。
マーク、Yさんはきっと懐かしかったんだと思うよ。
そのガマでは誰も死にませんでした。
食べ物は豊富にあったし、夜間は自由に行動できた。
そのガマは、とてもラッキーなガマだったと思う。日本兵が来るまでは。
日本兵が来て、人々をガマから追い出した。
ハードだったのは、それからだったと思う。
お父さんと弟さんを見失って、9人の友人がジャンプした。
そしてYさんは、大きなトラウマを持った。
62年後も、崖から海を見下ろせないんだよ。
でもガマそのものは、安全な場所の記憶かもしれない。
…。
それからしばらく、私達は黙って読谷を目指しました。
Posted by いのうえちず。 at 15:30
│記憶の中のリトルオキナワ
この記事へのコメント
なんかこの話、泣けます(T_T)
飛び込めなかったのは無理もないし、飛び込まなくて良かったと思う。でも、心の傷は深いんですね…戦争は罪だ。
飛び込めなかったのは無理もないし、飛び込まなくて良かったと思う。でも、心の傷は深いんですね…戦争は罪だ。
Posted by ルーファス at 2006年06月29日 22:54
そして今も、きっとイラクやイスラエルには、
自爆できなかったテロリストがいるし、
聖戦を戦う息子を案じる母がいる。
英雄として立派な葬儀を出されても、
心の傷が癒えない家族もいるはず。
「戦前のテニアンの話を聞かせてください」
と言って取材を始めるのだけど、
どうしても戦の話になっていくんだよね。
避けては通れないし、おじいおばあの口から
自然に出てくるものを遮る気もない。
テニアンの戦は短期間で終わったし、
民間人だろうと無差別に殺すようなことはなかったから、
沖縄本島での戦に比べれば、まだマシかもしれない。
でも、あんなのんびりした、小さな島で、
地獄があったんだなあと思うと切ない。
そしてテニアンは、沖縄からグアムに移転する海兵隊の演習場になろうとしています。
中国系のいびつで豪華なカジノ&ホテル、そして米軍。
テニアン帰りのおじい・おばあたちは、
これでふるさとを3度失うことになるわけだ。
自爆できなかったテロリストがいるし、
聖戦を戦う息子を案じる母がいる。
英雄として立派な葬儀を出されても、
心の傷が癒えない家族もいるはず。
「戦前のテニアンの話を聞かせてください」
と言って取材を始めるのだけど、
どうしても戦の話になっていくんだよね。
避けては通れないし、おじいおばあの口から
自然に出てくるものを遮る気もない。
テニアンの戦は短期間で終わったし、
民間人だろうと無差別に殺すようなことはなかったから、
沖縄本島での戦に比べれば、まだマシかもしれない。
でも、あんなのんびりした、小さな島で、
地獄があったんだなあと思うと切ない。
そしてテニアンは、沖縄からグアムに移転する海兵隊の演習場になろうとしています。
中国系のいびつで豪華なカジノ&ホテル、そして米軍。
テニアン帰りのおじい・おばあたちは、
これでふるさとを3度失うことになるわけだ。
Posted by ちず。 at 2006年06月30日 06:50
Caveにもう一度もどることは、何度も夢見たのでしょうね。長い人生の中で。折りにふれて。
人生にいきなり大きな蹉跌をかかえて生きるなんて、さぞつらい生活だったでしょう。
小2から広島の観音小へ転校
人生にいきなり大きな蹉跌をかかえて生きるなんて、さぞつらい生活だったでしょう。
小2から広島の観音小へ転校
Posted by マツイ亭ゴジラ at 2006年06月30日 08:25
そのガマには、日本兵のヘルメットなどが、
そのままあったそうです。
Yさんは、ガマに戻ってくることができて、
胸のつかえがおりたというか、一つ宿題を終わらせたというか、
何かをクリアしたような、気が済んだ感じだったのかもしれません。
沖縄で、公園の土から薬莢が出てくることもありますが、
テニアンでも同じような感じで、何気なく砲弾が出てきたりします。
広島にも呉にも戦跡はたくさんありますが、
地上戦が行われた場所の、生々しさとは少し種類が違うように思います。
マツイ亭ゴジラさん、観音小をご卒業ですか!
そのままあったそうです。
Yさんは、ガマに戻ってくることができて、
胸のつかえがおりたというか、一つ宿題を終わらせたというか、
何かをクリアしたような、気が済んだ感じだったのかもしれません。
沖縄で、公園の土から薬莢が出てくることもありますが、
テニアンでも同じような感じで、何気なく砲弾が出てきたりします。
広島にも呉にも戦跡はたくさんありますが、
地上戦が行われた場所の、生々しさとは少し種類が違うように思います。
マツイ亭ゴジラさん、観音小をご卒業ですか!
Posted by ちず。 at 2006年06月30日 08:49
マツイ亭ゴジラは、そのご観音小を2年で中退しまして、舟入小に転校します。舟入小も3年の2学期で中退して、そのご祇園小を無事ご卒業です。
Posted by マツイ亭ゴジラ at 2006年06月30日 09:57
マツイ亭ゴジラは、そのご観音小を2年で中退しまして、舟入小に転校します。舟入小も3年の2学期で中退して、そのご祇園小を無事ご卒業です。
Posted by マツイ亭ゴジラ at 2006年06月30日 15:59
おお、舟入に祇園!
なんと懐かしい地名でしょーか。
なんと懐かしい地名でしょーか。
Posted by ちず。 at 2006年07月01日 09:59