2007年05月25日
リスペクト!
さて、ひめゆり資料館で聞いてきた話ね。
戦争が終わったら、今、ひめゆり資料館がある伊原壕のあたりは、観光地になっていたそうな。
「日本のスクールガールが、いっぱいここで死んだってよ」
ってな調子で、チューインガムをかみながら、コーラを飲みながら、
笑いながら、見に来るアメリカ人達がいた。
あの辺りには、昔の真和志村(今の那覇市真和志か)の人々が強制移住させられていて、
(強制移住っていうと言葉が強いけど、
まあ要するに米軍に「マワシ村の人は、この辺に住んでよ」と土地をあてがわれた)
1946年の4月には、真和志村の人々によって「ひめゆりの塔」が建立されています。
海兵隊で、ハワイ出身の沖縄系2世だったハーリー・シンイチ・ギマさんは、
その光景を見て、ショックを受けた。絶対に許せないと思ったそうです。
そして、ひめゆり学園の教師で、戦争中に学徒動員された教え子たちを引率していた
仲宗根政善先生を訪ねたそうです。
この土地を早く買いなさい。でないと、ひめゆりの壕のそばまでお店が立ち並びますよ。
でも、仲宗根先生に、そんなお金は一銭もなかった。
戦争が終わったら、今、ひめゆり資料館がある伊原壕のあたりは、観光地になっていたそうな。
「日本のスクールガールが、いっぱいここで死んだってよ」
ってな調子で、チューインガムをかみながら、コーラを飲みながら、
笑いながら、見に来るアメリカ人達がいた。
あの辺りには、昔の真和志村(今の那覇市真和志か)の人々が強制移住させられていて、
(強制移住っていうと言葉が強いけど、
まあ要するに米軍に「マワシ村の人は、この辺に住んでよ」と土地をあてがわれた)
1946年の4月には、真和志村の人々によって「ひめゆりの塔」が建立されています。
海兵隊で、ハワイ出身の沖縄系2世だったハーリー・シンイチ・ギマさんは、
その光景を見て、ショックを受けた。絶対に許せないと思ったそうです。
そして、ひめゆり学園の教師で、戦争中に学徒動員された教え子たちを引率していた
仲宗根政善先生を訪ねたそうです。
この土地を早く買いなさい。でないと、ひめゆりの壕のそばまでお店が立ち並びますよ。
でも、仲宗根先生に、そんなお金は一銭もなかった。
自分は引率をして、結果的にはたくさんの生徒を殺してしまった。
とても辛い。何かをしてあげたいけど、今の私には何もできない。
そう言って、先生は涙を流されたそうです。
その涙を見たギマさん。
1951年に、自分で2000坪、壕のまわりの土地を買い、
匿名を条件に、寄付してくれたんだって。
「自分がこの土地を買って寄付したことは、言ってくれるな」
…男だよ。なんちゅう男気だ。
自分の祖国であるアメリカと、親の祖国である日本。
その間に立つ2世たちの苦悩は、しばしば小説や映画・ドラマにも描かれていますね。
日系移民が収容所に収容される中、自ら志願して入隊した日系2世たちの部隊が、
ヨーロッパ戦線で勇敢に戦ったことは、よく知られています。
とても優秀な部隊だったという評価ですね。
沖縄戦には、うちなー2世たちも来ていたということも、よく知られていますね。
自分のルーツを大切にする沖縄の文化を背負い、
その親の祖国・ふるさとで、もしかしたら親戚かもしれない敵と戦い、
投降を呼びかけても自決する人々・投降に応じずに殺されていく人々を目の当たりにして、
どれだけ胸をかきむしられる思いだったかと思います。
ギマさんも、そんな中の一人。
ひめゆり学徒たちが大勢死んだ壕が、観光地化して、
チャラチャラやってくる人を見るのが耐えられなかったんでしょう。
ひめゆり資料館の敷地の外郭を囲うブロック塀。
それも、まだギマさんが現役の兵隊だったときにトラックにコンクリートブロックを積んできて、
夜中に、アメリカの友人たちと一緒に、積み上げて作ったものだそうです。
仲宗根先生は、「土地を2000坪も買って寄付してくれた恩人」の名前をみんなに明かすこともできず、
ずーっとモヤモヤしてこられたことでしょう。
琉球大学の学長時代に、ハワイ大学に交換留学生を出す機会があった。
その時、ハワイでギマさんを探したそうです。でも、見つからなかった。
沖縄に帰ってきたら、ギマさんがなんと牧港で軍属として働いていたことがわかった。
その時は、ちょうどひめゆり資料館を建てる直前。
戦後、40年も経っていた頃ですよ。
その時になって、初めてギマさんが、ひめゆりさん達の前に姿を現した。
ひめゆり同窓会の総会で、やっと感謝状を贈ることができたそうです。
残念なことに、ギマさんは60歳でガンで亡くなりました。
1992年、ひめゆり資料館の一角に、ギマさんの顕彰碑ができた。
除幕式には、ハワイからギマさんの奥さんをお招きしたそうです。
「こんなのは、みんなに知らせたいですよね。
こういうことをやるというのは、すごいですよ」
と、ひめゆり資料館の証言員・宮城さんはおっしゃいました。
「微力だけど総力作戦」で、
私のブログで一人でも多くの人に知ってもらえたら、と思います。
「多分、アメリカ兵からも寄付金も集めたと思いますよ。大変なお金ですよね。
ひめゆりの塔、資料館というのは、大きな、人の支えがあるんです。本当にありがたいです」
と、宮城さん。
いやー、資料館ができるまでのお話に、私は本当に感動しました。
そして、いまいち知られてないヒーロー、シンイチ・ギマ!
私はギマさんを心からリスペクトします。
ギマさんの顕彰碑は、ひめゆりの塔の敷地に入って、すぐの右手。
あそこ行くと、左側にある壕の入口やガジュマルについ目がいっちゃいますけど、
反対側もぜひ見てね。
とても辛い。何かをしてあげたいけど、今の私には何もできない。
そう言って、先生は涙を流されたそうです。
その涙を見たギマさん。
1951年に、自分で2000坪、壕のまわりの土地を買い、
匿名を条件に、寄付してくれたんだって。
「自分がこの土地を買って寄付したことは、言ってくれるな」
…男だよ。なんちゅう男気だ。
自分の祖国であるアメリカと、親の祖国である日本。
その間に立つ2世たちの苦悩は、しばしば小説や映画・ドラマにも描かれていますね。
日系移民が収容所に収容される中、自ら志願して入隊した日系2世たちの部隊が、
ヨーロッパ戦線で勇敢に戦ったことは、よく知られています。
とても優秀な部隊だったという評価ですね。
沖縄戦には、うちなー2世たちも来ていたということも、よく知られていますね。
自分のルーツを大切にする沖縄の文化を背負い、
その親の祖国・ふるさとで、もしかしたら親戚かもしれない敵と戦い、
投降を呼びかけても自決する人々・投降に応じずに殺されていく人々を目の当たりにして、
どれだけ胸をかきむしられる思いだったかと思います。
ギマさんも、そんな中の一人。
ひめゆり学徒たちが大勢死んだ壕が、観光地化して、
チャラチャラやってくる人を見るのが耐えられなかったんでしょう。
ひめゆり資料館の敷地の外郭を囲うブロック塀。
それも、まだギマさんが現役の兵隊だったときにトラックにコンクリートブロックを積んできて、
夜中に、アメリカの友人たちと一緒に、積み上げて作ったものだそうです。
仲宗根先生は、「土地を2000坪も買って寄付してくれた恩人」の名前をみんなに明かすこともできず、
ずーっとモヤモヤしてこられたことでしょう。
琉球大学の学長時代に、ハワイ大学に交換留学生を出す機会があった。
その時、ハワイでギマさんを探したそうです。でも、見つからなかった。
沖縄に帰ってきたら、ギマさんがなんと牧港で軍属として働いていたことがわかった。
その時は、ちょうどひめゆり資料館を建てる直前。
戦後、40年も経っていた頃ですよ。
その時になって、初めてギマさんが、ひめゆりさん達の前に姿を現した。
ひめゆり同窓会の総会で、やっと感謝状を贈ることができたそうです。
残念なことに、ギマさんは60歳でガンで亡くなりました。
1992年、ひめゆり資料館の一角に、ギマさんの顕彰碑ができた。
除幕式には、ハワイからギマさんの奥さんをお招きしたそうです。
「こんなのは、みんなに知らせたいですよね。
こういうことをやるというのは、すごいですよ」
と、ひめゆり資料館の証言員・宮城さんはおっしゃいました。
「微力だけど総力作戦」で、
私のブログで一人でも多くの人に知ってもらえたら、と思います。
「多分、アメリカ兵からも寄付金も集めたと思いますよ。大変なお金ですよね。
ひめゆりの塔、資料館というのは、大きな、人の支えがあるんです。本当にありがたいです」
と、宮城さん。
いやー、資料館ができるまでのお話に、私は本当に感動しました。
そして、いまいち知られてないヒーロー、シンイチ・ギマ!
私はギマさんを心からリスペクトします。
ギマさんの顕彰碑は、ひめゆりの塔の敷地に入って、すぐの右手。
あそこ行くと、左側にある壕の入口やガジュマルについ目がいっちゃいますけど、
反対側もぜひ見てね。
Posted by いのうえちず。 at 10:57
│沖縄