家族の肖像
沖縄で一番おいしい砂糖天ぷらだと私が思うのは、Yさんお手製のもの。
米軍のメスホール(食堂)で長く働いたというYさんオリジナルのレシピは、
ほんのりオレンジの香りがして、でーじおいしいのよん。
これは、テニアンで戦前に撮影された写真です。
Yさんのお父さんは、最初は仲本酒造所で働いていましたが、
やがて南洋興発の軽便鉄道の運転手になりました。
今は鉄道の跡なんて見る影もないテニアンですが、
当時は、伐採したキビを運ぶための軽便鉄道が、
各農場事務所を回るように敷設されていました。
Yさんは、沖縄県史に残る機関車の写真を見て、
「ああ、これは1号車だね」
父親の仕事を誇りに思う少年だったのでしょう、車両の形ですぐにわかるとおっしゃいました。
基本的には軽便鉄道は、キビの運搬用でしたが、
人が乗れる貨車のついた機関車もあったそうです。
この家族写真は、ハワイに移民していた親戚が送ってくれた服を着て、
家族で記念写真を撮影したときのもの。
海岸通りに近かったYさんちの、自宅の前あたりではないかということでした。
Yさんちにあった写真は、すべてテニアン地上戦で焼失しました。
戦前、テニアンからハワイの親戚に送っていた写真が、戦後になって沖縄へ戻ってきたそうです。
「家族の写真がないだろう」という、親戚の気配りだったそうです。
たった一枚の写真ですが、その背景にはいろんな人の想いがあるんですね。
私に言えることが一つあるよ。
写真をとったらね、友達にたくさん送りなさい。
必ず戻ってくるから。
その言い方は沖縄独特のユーモア(時にブラックユーモアを含む)に満ちていて、
でも少し悲しく、私は笑った後、鼻の奥がつんとしました。
ちなみに、Yさんは地上戦の時、
「自決をしてはいけない、アメリカは民間人は殺さない」
と日本兵に説得され、投降の仕方も教わって、
その通りにして助かったのだそうです。
棒の先に白い布を結びつけて、投降を勧告するビラを持って、
おそるおそる米兵の前に出た。
「あの兵隊さんがいなかったら、私はここにいないわけさ」
その兵隊さんは、自決したそうです。
「せめて部隊名と名前だけでも聞いていれば」と、
Yさんはとても残念に思っているといいました。
日本軍が集団自決を強要していたという記述を消すよう求める教科書検定は、
間違っていると私は思います。
とはいえ、個々のシチュエーションで、
全ての集団自決を100%日本兵が強要したかどうかはわからないと思います。
南洋では、Yさんのように、Mタンメーのように、日本兵に救われた人もいる。
沖縄ではどうだったんだろう。
だけど、南洋でも沖縄でも、全体として、軍が糸をひく軍国教育があり、
当時の日本人たちが「自決は潔く、美しいもの。日本人として当然のこと。捕虜になるより自決を」
と思っていた・思わされていたことは事実。
自決のための手りゅう弾を、兵隊にもらった人、配られた人だっていました。
そこのところをすっとばして、
日本軍が作り出し・人々を追い込み・仕向け・実質的に強要した「集団自決」を、
「強要したとはいえない」なんて、
ずいぶん日本軍への善意に満ちた解釈もあったもんだ、と思います。
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