まだ、近づけてない。

いのうえちず。

2006年11月12日 00:14

今日も目からウロコの発言がありました。
まだまだ、「核」のようなものに近づけないでいる自分。


「沖縄からテニアンへ」の連載第三回目の原稿を、
沖縄テニアン会の方々へ送り、内容に間違いがないかどうかチェックしてもらいます。
今日は、M子さんとその件に関して、少しお話ししました。

ち「疎開命令は、どの程度の実効力があったんでしょう?
 老幼婦女子に退去命令が出たと物の本には書いてありますけど、
 実際は残った人もいましたよね」
M「ウチの場合は、父と姉だけだったら6月に疎開できたんですけど、
 私が疎開できるのは、7月入ってからだということで、
 (家族が)揃って疎開できるのを待とうということになりました」
ち「順番だったんですね?」
 ※M子さんは、南洋興発の気象係で、各農場と会社との気象関係の連絡を行い、
  それを記録する仕事をしていました。
  南洋興発は軍との協定により、企業が丸ごと軍属になったような状態だったので、
  軍にとって使えそうな人材は、残るようにという意図があったのかも。
  ちなみに16歳から60歳の、働ける男性は強制在島で、島から出ることはまかりならん状況。
M「そうそう。年寄りとか、小さいこどものいる人から優先的にね。
 私なんかは、もう大きかったから」
 ※優先順位でいえば、後回しになったんだって。
  その家庭によって、「妻と子だけでも内地へ」と思う人もいれば、
  「みんな揃って船に乗りたい」と思う人もいたわけで。
ち「あ。じゃあ、疎開が全部終わる前に、戦になったんですね?」
M「そうなんです。軍関係の知っている人には、早く帰ったほうがいいって言われましたけど」
ち「…軍の人は、もしかしたら情報を知っていたのかもしれませんね。
 一般の人は、そんなに早くアメリカが上陸するとは思わなかっただろうし」
M「私たちは何も知らないもんだから」
ち「疎開船、結構沈められましたよね。船に乗るのも怖いし」
 ※旧厚生省の調査による戦没者としては、公式にはカウントはされませんが、
  疎開船、運搬船、貨客船。。。いろんな船が、主にアメリカの潜水艦により沈没させられました。
  日本海軍の船と、徴用された軍属船、他の日本の船を合わせると、
  ミクロネシア海域では、約530隻が沈没し、約10万8千人が死んだとする数字もあります。
  ちなみに、漁業関係者の証言によると、「どこそこで○○丸がアメリカにやられた」という情報は、
  噂としてひそかにささやかれ、「本当に戦争が迫っているのかな」と薄々は思っていた、
  んですって。もちろんマスコミでそんなことを報道しているわけもないのですがね。
M「そうよぉ、どうすればいいか、わかりませんでしたよ」
ち「判断できないですよね」
M「ええ。だって、戦争に遭ったことがないのに、どうしていいかわかりませんよ
ち「…!あ。 そうか。 そうですよね。その時は」

「戦争体験者」という目でM子さんを見ている私。
だけど、戦争を体験していた、まさにその時は、
M子さんは、初めての戦争、初めての経験に戸惑い、ためらい、
時には生き物としてのカンで何かを判断して、生き残った。
そこまで思いが至らなかった。

私、62年前のM子さんには、まだまだ全然、近づくこともできてないんだ。
聞き手・書き手として、魂の修行が足りません。
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